インドネシア🇮🇩より【繋がれ Pecinta Judo!No.3】

JUDOsでは、海外で柔道指導者として活躍されている方々の声をお届けする「海外からの柔道指導だより」を掲載しています。

東南アジア南部にあるインドネシアのジャカルタ・ジャパン柔道クラブ(以下JJJC)で指導者として活動されている太田雄一郎さんからの活動報告です!


繋がれ Pecinta Judo!🇮🇩

Pecinta Judo(インドネシア語で柔道を愛する人の意)

前回の記事、「インドネシアより【繋がれ Pecinta Judo!No.2】」で紹介したラニ選手に関する続報です。ジャカルタジャパン柔道クラブ(以下、JJJC)の太田雄一郎が担当します。

7月26日(金)より開幕したパリオリンピックの柔道競技女子52kg以下級に出場を決めたインドネシアのラニ選手。JJJCで日本人柔道家と、とりわけ安齋俊哉師範のもと稽古に励んできたことは前回のレポートで触れたとおりですが、オリンピック初戦で見事な一本背負投を決め、インドネシア柔道界から8人目のオリンピック出場で初勝利という快挙を成し遂げました。

今回のレポートでは、インドネシア柔道選手が初出場した1992年バルセロナオリンピックから、実に32年の時を経て成し遂げられた今回の快挙、ラニ選手の足跡を辿ってみます。

ラニ選手と安齋師範、パリオリンピック柔道会場にて

ラニ選手は中学生の頃から安齋先生に師事し、柔道家としての基本動作、体捌き、得意技を作り上げていきました。またJJJCでの稽古にも継続的に参加する中で数多の親父柔道家達との稽古を通し、各人の得意技や組手など、自分の柔道に活用できるところを吸収し、技術の引き出しを増やしていく勤勉さを持っていました。また、インドネシア国内の稽古だけではなく、安齋先生の紹介で日本の高校、大学への出稽古合宿を継続的に実施し、様々なタイプの相手との稽古や新しい練習方法を経験し、着実に力を付けていきました。そんな彼女と仲間達を、JJJCとしても栄養会の開催や、リサイクル柔道着の贈呈等で応援し続け、中には彼女達が稽古に注力できるよう洗濯機を贈呈した駐在員親父柔道家まで存在したほどです。

また、ラニ選手が中高生時代にJICA(国際協力機構)の派遣する青年海外協力隊より柔道隊員がラグナン体育学校に派遣されたことで、より密度の高い稽古が継続的に実施できる環境となっていきました。そのような環境でラニ選手は順調に成長し、高校卒業後にはナショナルチームに招集されました。柔道ナショナルチームのトレーニングセンターは西ジャワ州チアンジュール県のチロトという高原の中腹にあり、92年に日本企業である東レグループの大規模な支援金で設立された施設です。同トレーニングセンターの設立に当たっては、1970年代から東レグループのインドネシア現地法人会社に出向し、柔道の指導に当たっていた黒田憲一先生の働きかけによるところが大きく影響しています。その黒田先生が1980年代に警察大学校で柔道を指導されることになり、それが縁となって前述の安齋先生が1988年にインドネシアの初代青年海外協力隊員として女性警察官養成学校に派遣されたことで、その後30年に渡り累計20名に渡る青年海外協力隊員が柔道指導員としてインドネシアに派遣され、各地域の警察官や青少年に柔道の指導を行い、インドネシア柔道のレベルアップに貢献してきました。


東レの支援によりチロトに建設されたトレーニングセンター内にて

青年海外協力隊員の柔道指導員は、首都のジャカルタ特別州のみならず、北スマトラ州、西スマトラ州、リアウ州、西ジャワ州、東ジャワ州、中ジャワ州、南スラウェシ州、バリ州(島)等、警察官養成学校が所在するほぼインドネシア全土に派遣されており、そこで未来のオリンピアンを指導する機会を得た隊員もおり、今回のパリオリンピックに出場を果たしたラニ選手を含む5名のオリンピアンが、前述の安齋先生をはじめとする青年海外協力隊員の指導を受けることで、選手として大きく成長を遂げていきました。

インドネシア柔道が着実にレベルアップする中、近年の国際大会では柔道の「形」を競い合う試合も行われるようになり、現在バリの仙石道場で地元の青少年にボランティアで柔道の指導をされている仙石常雄先生が形の講師としてナショナルチームの指導を行うこともありました。仙石先生は1970年代にインドネシア巡回指導を経験されており、その際に目の当たりにしたインドネシアにおける貧富の差の厳しさ、いつかインドネシアの子供達に柔道を通して自信を付けさせたいという夢を、2007年に私財を投じてバリ島に建設した仙石インターナショナル道場にて実現されています。また、仙石先生は前述の安齋先生と合わせてインドネシアナショナルチームの特別コーチスタッフに任命されています。

やや話が逸れましたが、上に紹介した数多の日本人柔道家達が約半世紀に渡り、陽に陰にインドネシア柔道の発展を支えてきた歴史があり、その支援の数々が今回のラニ選手のオリンピック初勝利にも繋がったと確信しているところです。


試合後のラニ選手。現地には以前JJJCでともに稽古したフランス人柔道一家も応援に駆け付けた。

話をラニ選手に戻しますと、直近では世界グランプリ転戦を通して試合の度に成長を見せました。また2012年ロンドンオリンピック出場経験を持つインドネシア人コーチが遠征に同行したことで、世界で戦い、勝つためのポイントをインドネシア人選手目線でアドバイスできたこともラニ選手の急成長に一躍買ったと思われます。こうしたラニ選手本人の努力、日本人柔道家達の指導と応援、インドネシア柔道連盟のバックアップとチームワーク、これら全ての要素が重なり見事今回のパリオリンピック出場を勝ち取りました。

さらにパリオリンピック開会式では、インドネシア代表12競技、29名の中からラニ選手がインドネシア選手団の旗手に選ばれるという大役を担い、最高の笑顔でその任務を全うしました。

そして7月28日(日)の柔道競技女子52kg以下級の1回戦でモザンビーク代表のフェレイラ選手と対戦、大きなプレッシャーの中、ラニ選手は序盤から積極的に仕掛け、組手争いから一瞬の隙を突いた低い左一本背負投に相手選手は大きく回って背中から畳に落ち、インドネシア柔道を新たなステージに引き上げる歴史的な一本勝ちを収めました。

図らずも当日、ジャカルタ市内の柔道場では国立ジャカルタ大学杯が行われていましたが、大会実行委員会の粋な計らいで、ラニ選手の試合が巨大スクリーンに同時中継され、そこにいた全ての大会参加者選手、大会実行委員、観客が心を一つにラニ選手を応援していました。そしてラニ選手の一本勝ちが宣告されたその時、会場は異様な熱気に包まれ、多くの人がこの快挙に感涙しました。この快挙の瞬間は同大会の会場にいた人たちのみならず、全インドネシア中の柔道家、柔道ファンが同時中継で目撃し、感動していたと確信しています。このラニ選手の歴史的な勝利は現地応援に駆け付けた安齋師範、嘗てJJC柔道部で一緒に稽古に励んだフランス人柔道家達、そして世界中で活躍しているJJC親父柔道家達へ最高の恩返しとなるものでした。


2024年8月4日(日)、JJJCの定例稽古にラニ選手も参加し、4年後のオリンピックを見据え、さっそくJJJC親父柔道家とも稽古を行った(前列中央に安齋師範とラニ選手)


オリンピックでインドネシア初の勝利を収めたラニ選手、おめでとうございます!

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