ミャンマー🇲🇲より【めんでん 柔道記 No.23】

JUDOsでは、海外で柔道指導者として活躍されている方々の声をお届けする「海外からの柔道指導だより」を掲載しています。

今回は、ミャンマー🇲🇲・ネピドーで柔道指導を行っていた平沼大和さんからの最後の活動報告です!
平沼さんは、2026年1月に任期を終えて帰国されました。写真は、1月に事務局へご挨拶にお越しくださった際のものです。

平沼さん、3年間お疲れ様でした!

Menden Judoki In Myanmar, 4,364 km away from Japan.🇲🇲vol.23


めんでん柔道記
〜4,364km離れたミャンマーの地で🇲🇲vol.23

2026年の新年を迎えた瞬間

本稿は、三年にわたって綴ってきた「めんでん柔道記」の最終章となります。
 2023年、ミャンマーに渡ったあの日、
「いつかミャンマーを去る。その時まで、ミャンマー柔道の普及と発展に取り組み続けたい」と、強く心に決めました。

ミャンマーは、情勢次第では突然「日本人は退避・帰国してください」と告げられても不思議ではない国です。加えて、仕事そのものが急に継続できなくなる可能性も常にありました。私は講道館やJICAなど、いずれかの組織から派遣されてきた人間ではありません。何か明確な後ろ盾や所属を持って来た存在でもありませんでした。

平沼大和という個人として、ミャンマー・スポーツ省と直接契約を結び、この地に立っていました。だからこそ、「いつ去ることになってもおかしくない」という覚悟と認識は、常に心のどこかにありました。しかしあの時は、その“いつか”が、どのような形で訪れるのかまでは、具体的に想像できていませんでした。

あれから三年。

ミャンマーという国で、柔道を通じて数え切れない出会いと喜びを得る一方で、想像以上の困難にも直面しました。それでも最後まで、柔道というものに向き合い続けることができたことは、今振り返っても、自分自身の誇りであり、かけがえのない財産だと感じています。

この最終章では、結果や成果を整理するのではなく、その過程で何を感じ、何に支えられ、そして何が心に残ったのかを記したいと思います。

嬉しかったこと。
苦しかったこと。
そして、楽しかったこと。

ミャンマー柔道の現場で過ごした時間を、
一人の指導者として、そして一人の人間として、静かに振り返ります。

第1章 嬉しかったこと

まず、前の報告文でも記したように、ミャンマー柔道史上初めて、団体戦でメダルを獲得することができました。試合が終わり、選手たちが表彰台に上がっていく。そして、自分たちでスマートフォンを手に取り、記念写真を撮り合っている。成功の瞬間を、写真という形で残そうとするその光景を、私は少し離れた場所から眺めていました。そこに立っているのは、私ではありませんでした。

三年間、畳の上で汗を流し、辛さ、苦しさ、負けや悔しさを抱え、葛藤を乗り越え、それでも立ち上がり続けてきた選手たちでした。彼らが自分たちの力で勝ち取り、その場に立っている。その事実を、少し距離のある場所から見届けられた瞬間、「本当に良かった」「やり切った」そう心から思えました。

正直に言えば、選手としての自分は、「やり切った」と言えるところまで辿り着けなかったと思っています。それでもこの時、今まで生きてきた人生の中で、初めて「やり切った」と思えたのかもしれません。指導者として、日本、カナダ、そしてミャンマーと仕事をしてきた中で、「選手が前に立つ姿を見られる喜び」の方が大きくなる。
この時、初めてその感覚が分かった気がしました。


2025タイ シーゲームスの表彰式の様子

同じような嬉しさは、他の場面でも感じています。在ミャンマー日本大使館と平沼道場で共催したジャパンカップ。その会場で、女の子が思い切って技に入り、相手を投げ切った瞬間がありました。ちょうどその場面をカメラマンが捉えており、後日のお疲れ様会で、その写真が共有されました。多くの人がいる場にもかかわらず、なぜか涙が込み上げてきてしまいました。
勝ったからではなく、その一瞬に至るまでの過程が、すべて詰まっているように感じたからだと思います。

ジャパンカップにて平沼道場の生徒が投げた瞬間

またヤンゴン遠征の際には、選手たちの宿舎にクーラーがありませんでした。一番暑い日中は、エアコンがあり涼しい私の部屋に少年たちが集まり、気がつけば皆で雑魚寝になっていました。
その時、私はちょうど「めんでん柔道記」を書いていました。
ふと顔を上げると、目の前に広がるその光景を見て、言葉にできない感覚が胸に込み上げてきました。自分が彼らと同じ年頃だった頃、同じように先生方にお世話になっていたことを、自然と思い出したのです。

そして、特別な大会や出来事ではない、いつもの練習風景を眺めている時間も私にとっては嬉しいものでした。畳の端に立ち、少年たちが黙々と稽古に打ち込む姿を、ただ眺めている時間。その何気ない時間こそが、実は一番嬉しかったのかもしれません。


少年柔道の生徒たちが整列している様子

第2章 苦しかったこと

苦しかったことを振り返ると、一つの出来事というよりも、
いくつもの出来事が重なり合い、静かに積み上がっていった時間だったように思います。ここに記すのは、誰かを批判するためではなく、一つの現場で起きた事実と、そこで感じた平沼の個人的な記録です。

まず大きな出来事として、2025年3月28日、ミャンマー中部マンダレー付近を震源地とするマグニチュード7.7の大地震がありました。2025年4月22日に発表されたASEANの情報によると、死者はおよそ3,800人、負傷者は5,100人、行方不明者は116人にのぼり、都市部・農村部を合わせて約85万7,000人が被災したとされています。

私が住んでいたネピドーは、マンダレーに隣接する州であり、こちらの被害も甚大でした。バイクで2〜3分ほどの距離にある四階建ての公務員住宅では、いわゆるパンケーキクラッシュ(1階部分が完全に潰れ、上階がそのまま落下する倒壊)が起こり、多くの人が亡くなりました。

震災後しばらくの間は、助けたくても助けることができないご遺体から漂う腐臭が、周囲に立ち込めていました。水と電気が復旧したのは、震災から一か月ほどが経ってからのことです。
生活としても、仕事としても、決して楽な状況ではありませんでした。それでも、その時間を一人で耐えていたわけではありません。ミャンマーの人たちと同じ環境の中で、同じ不安を抱えながら、共に乗り切っていました。国籍は違っても、「今をどうやって越えるか」という点では、同じ場所に立っていたと思います。

一方で、その時期、ネピドーに残っていた日本人は私一人になりました。
誰かと話せば解決するわけではありませんが、それでもふとした瞬間に、言葉にできない孤独を感じることがありました。


大地震で崩壊しそうな公務員住宅

そうした中で、ある日突然、一方的に監督交代の話が持ち上がりました。
正式な説明や十分な話し合いがあるわけではなく、これからジムでウエイトトレーニングをしようとしていた時に、突然レターを手渡されました。
競技とは別の力関係や、事前の根回しによって、物事が動こうとしていることを感じました。その時は冷静でいることができず、急に沸点に達し、強い怒りを覚えたことを今でもはっきりと覚えています。
 
契約更新についても、丁寧な協議が行われることはほとんどなく、意思疎通は一方通行に近いものでした。結局、契約書は最初に交わしたものを最後まで使い回し、細かな条件はミャンマー側の都合で決められていきました。

さらに、ナショナルチーム監督という立場に対するリスペクトが感じられない越権行為も、当たり前のように存在していました。練習プランや方針が一方的に変更されたり、選手選考の基準がその時々の判断で変えられたり、団体戦のオーダーに口出しされたりすることもありました。

最後の終わり方も、決して良いものだったとは言えません。信頼していた関係が崩れ、手のひらを返されたように感じる出来事もありました。選手のために立て替えていた黒帯の購入代金が、両替を依頼した人物から戻らないまま終わったこともありました。

ひとつひとつを見れば、小さな出来事かもしれません。
しかし、それらが積み重なることで、心と体にかかる負荷は、確実に大きくなっていきました。それでも、不思議と柔道から離れたいと思ったことも柔道の価値を疑ったこともありませんでした。畳に立てば、余計なことを考えずに済む。立場や状況に関係なく、やるべきことが明確になる。

どんな状況に置かれても、この三年間、私を支え、軸であり続けたのは、間違いなく「柔道」でした。

第3章 楽しかったこと

それでも、苦しかった記憶と同じくらい、いや、それ以上に、はっきりと思い出せる「楽しかった時間」があります。その一つが、ミャンマーの人たちと行った飲み会です。ミャンマーには、誕生日の人がご馳走をする文化があります。

私の誕生日の際には、気がつけば50人ほどが集まり、ホットポットを囲んで賑やかな時間になりました。決して特別な演出があったわけではありません。ただ、同じ鍋を囲み、酒を飲み、笑い、他愛もない話をする。その空間の中で、自分が「ここにいていい」と自然に思えたことが、何より嬉しかったのです


私の誕生日で開催したホットポットパーティーで食事後の集合写真

また、この仕事をしていたからこそ出会えた人、そして得ることのできた知識や経験があります。正直に言えば、もし日本で同じ年齢だったとしたら、これほど多くの人にリスペクトをもって接してもらえることは、なかったかもしれません。
それは、私自身に十分な実績があったからではなく、「柔道ナショナルチームの監督」という立場があったからだと思います。その肩書きは、日本に限らず、ミャンマーや他の国々においても、多くの人との扉を開く、一つの“力”として働いてくれました。
ただし、その力に守られていただけではありません。柔道という共通言語を軸に、現場に立ち、話し、動き、形にしていく。そうした積み重ねがあったからこそ、次の人、次の機会へとつながっていったのだと思います。

この三年間で得たものは、メダルや結果だけではありません。人との関係性、異なる文化への理解、そして、自分自身がどんな立場で、どう振る舞うべきかという感覚でした。

語弊があるかもしれませんが、この仕事をしていなければ、決して触れることのなかった世界が、確かにありました。その世界を楽しむことができたこと自体が、今振り返れば、何よりの財産だったと感じています。

おわりに

三年間のミャンマーでの時間を振り返ると、そこにあったのは、成功や失敗といった単純な言葉では言い表せない、濃密な日々でした。嬉しかったことも、苦しかったことも、楽しかったことも、どれか一つだけを切り取ることはできません。それらすべてが重なり合い、今の自分を形づくっているのだと思います。

ミャンマーを去る時、「やり残したことはないのか」と自分に問いかけました。正直に言えば、完璧だったとは言えません。それでも、与えられた役割に向き合い、最後まで柔道とともに歩き切ったという実感はあります。柔道は、私にとって勝ち負けだけの競技ではありませんでした。

人と人をつなぎ、文化を越え、時に自分自身を支えてくれる軸でした。
その価値を、ミャンマーという国で、改めて教えられた気がします。

これから先、どこで何をしていくのかは、まだはっきりとは決まっていません。ただ一つ確かなことは、どんな場所に身を置くことになっても、どんな形でさえ柔道を続けたいという思いです。

「いつかミャンマーを去る。その時まで、ミャンマー柔道の普及と発展に取り組む」

三年前にそう記した言葉に、今、ようやく区切りをつけることができました。この記録が、ミャンマー柔道の現場に関わってきた人たち、そしてこれから異国の地で挑戦しようとする誰かにとって、ほんの小さな参考や励みになれば幸いです。

これまで支えてくださったすべての方々に、心から感謝を込めて。

チェーズーテ マーデー!!


参考文献

  1. WWF JAPAN オフィシャルサイト. 2026/01/23閲覧.【活動報告】2025年3月発生 ミャンマー地震被害への緊急支援. https://www.wwf.or.jp/activities/achievement/6047.html#:~:text 
  2. 33rd SEA Games Thailand 2025 Official Site , https://www.seagames2025.org/

平沼大和(ひらぬまやまと)

1997年北海道生まれ、2023年からミャンマー柔道連盟ナショナルチーム代表監督。中央大学商学部会計学科卒業、体育連盟柔道部所属。柔道実業団選手としてスポーツひのまるキッズ協会に所属の後、カナダ柔道連盟ナショナルチームアシスタントコーチを経て現職。


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